Scary Beauty

 開演前そのアンドロイドは振り子のように規則正しく揺れていた。その名前はオルタ2(Alter2)。人工知能(AI)を搭載している。これをロボットとは呼ばずに、アンドロイドというのか。体のほとんどの部分は金属製の部品がそのまま見える。腰から下は足ではなく人魚のように一まとまりのまま台座につながっている。それでもオルタ2がアンドロイド(人型ロボット)だと思えるのは、その上半身が人を模しているからだろう。精巧に作られた顔から耳。胴体からは二本の腕が伸び、肘からやや下の部分は顔と同じようにむき出しの鉄製ではなく皮膚のように見えるようなもので覆われ、人型をしている。それがゆっくりとまるで呼吸をするかのように揺れている。学生だった頃、指導教官が振り子(pendulum)という語が出てきた時に「以前は誰もが知っている単語だったのに…」と言ったのをふいに思い出した。私たちの身の回りの「ロボット」の多くがアンドロイドとなれば、今ある機械・ロボット・アンドロイドの語のうち、「振り子」になるのはロボットという語であろう。
 アンドロイドオペラとしてのScary Beautyは世界初演であるが、渋谷慶一郎のScary Beautyと名のつく公演は今回が3回目である。最初のScary Beautyはパリのオペラ座、これにはアンドロイドは登場しない。2回目はアデレードで、スケルトン(Skeleton)というオルタ2とは違うアンドロイドが歌っていた。私は公開制作で見た両性具有の容貌を持つスケルトンが好きだったので、今回のアンドロイドがオルタ2と聞いて、少しがっかりしていた。Web上で見ていた通り、オルタ2はスケルトンと違って、私には男性寄りに見えた。アンドロイドを「人型」と認識するのもオルタ2を「男性寄り」と認識するのも、私の中にそれぞれのプロトタイプがあるということだろう。先日見たSEERが女の子に思え、どの表情も「かわいい」と思えたのに反して、オルタ2は表情を変えれば変えるほど不気味(Scary)であった。どこに違いがあるのかわからないが、オルタ2がスケルトンやSEERと違うのは、口を開けると歯が見えることだ。以前見た韓流ドラマで主人公が「もう、また歯を見せてる!イライラするわね!」というような台詞を言っていた。人は口元も思いの外表情として認識しているのかもしれない。
 公演はオープニングアクトのような形でまず渋谷が入場し、その後、30人のオーケストラが入場しいよいよアンドロイドと人間の演奏が始まった。演奏を始める直前、一瞬オルタ2がまるで人がするように空を見上げたように見えた。
 アンドロイドが「指揮をする」とはどういうことなのか。そもそも「指揮をする」とは何なのか。この公演を知った時からずっと考え続けていたことが目の前で行われていた。私にとって「指揮」とはその楽譜を解釈して表現することで、それを表現する際に複数で行う場合に必要に応じて中心となるものである。例えば、渋谷が森山未來とピアノとダンスで共演した際には、その必要がないから指揮は存在しなかった。前述したスケルトンにはその機能がなかったため、渋谷が指揮をする必要があった。
 ポストトークで池上高志も最初のうちは「曲を聴いて踊っているようにしか見えなかった」と言っていたが、それは人間の指揮者であっても同様に見えることがある。では「踊り」と「指揮」の違いは何か。今回の公演を見て、踊りと違って指揮は音楽に対して優位に振る舞うことができるということなのかと思うようになった。森山と渋谷の共演の場合は、踊る森山とピアノを弾く渋谷の間にどちらが優位かという関係はなかった。オルタ2は中にリズムが入っていて、それを人工の神経細胞ネットワークに伝え、フィードバックをした上で、私たちに見えるような動きをしている(らしい)。しかしそのリズムには揺らぎがある(らしい)。つまり、オルタ2の揺らぎは「自身の中から生まれる」揺らぎであり、その揺らぎにオーケストラが合わせているというのが、今回の演奏なのであろう。揺らぎがあるから、単なるメトロノームとは違う。また今回の演奏で従うのは人間のオーケストラである。腕を動かしているのは、私たちにわかりやすくしているだけで、優位性はオルタ2にある。渋谷もオルタと同じオーケストラと対面する側にいて、時折各楽器に「もっと大きく」と思えるような動作をしていたが、それでオルタ2の内観を変化させることはできないので、オルタ2の優位性を上回ることはない。
 オルタ2が良く見える席にいたせいか、今回この公演の間中、とても怖かった。特にこの公演のために書かれた明るく美しい和音とオルタ2が歯を見せながら、回転する様には鳥肌がたった。最後に渋谷のピアノに合わせて歌うオルタ2は、この世に存在しながらこの世のものとは思えない何かに見えた。渋谷が参考にしたというテキスト「天人五衰」の英語のタイトルは、"The Decay of the Angel"。(人工)生命を生み出すことで神を目指す者がいるように私には思える。一方で、アンドロイドという「人を超えた何か」を作ろうとする瞬間を見たような気がした。

 

Parade for the End of the World

 私は記憶力がいいほうだと思う。写真のように映像が頭に残ることもあるし、物語として言葉で語れる記憶もある。今回のこの公演はその私の記憶の力に揺さぶりをかけてきて、記憶力がいいと思っていた私には、いささか不本意であった。

 まず情報量が圧倒的に多い。例えばミュージカル映画『ララランド』にしろ、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの音楽にしろ、ストーリーがあってこその音楽だ。しかし、このParadeは違う。音楽・映像・ダンスのそれぞれが独立していながら、ストーリーとの関係性を保っている。音楽・映像・ダンスを底辺にもう一つの頂点にストーリーを置いた三角錐のような作りになっている。独立しているので、音楽だけに気持ちを傾けようとすると落ち着かない。かといって、音楽もダンスも映像も同じぐらい気持ちを入れるとその情報量に付いていけずに途方にくれる。舞台にいる3人は制作にあたって延々と議論を続けたそうである。そのような議論が絶妙なバランスを生み出したのであろう。

 映画などで走馬灯のように過去の出来事が駆け巡るような場面がある。Parade全体はちょうどそのような構成だった。for the End of the Worldのサブタイトルのように、個人の死の直前のようでもあるし、もっと大きく人類滅亡へのパレードのようでもある。楽しいこと、美しい思い出はゆっくりと思い出され、目まぐるしい変化は音と映像で表現される。

 そんな中で、唯一人間として舞台に登場するのがジェレミー・ベランガール。パリオペラ座の元エトワール。多くのダンスファンは、彼の美しい踊りを期待していたのだと思うが、この作品での彼は道化である。自分の意思とは異なる大きな流れの中で翻弄される人間。それは個人の人生でもそうであるし、人類としても同様である。DNAレベルまで解析されようがクローンが作られようが、私たちは生命の神秘の謎を解き明かすことはできないはずだった。もしその謎が解けたなら、それは正しくParade for the End of the Worldである。

 私は渋谷のファンである。今回、この作品に関して彼は様々な場面で解説をしてくれている。なのでそれをここで今更書くのは野暮であろう。彼のInstagramに度々登場するチャーミングなジェレミー・ベランガールを生で見られて嬉しかった。ただ、今回の一番の収穫は映像を担当するジュスティーヌ・エマールだったと思う。次にどのような作品を見せてくれるのか楽しみで仕方がない。

 記憶力の良いはずの私が、消化不良を起こすほどのこの作品。もう一度見たい。


 

地をひらく人たち

hillsideterrace.com

 

@クラブヒルサイドサロンに行ってきた。

 

ゲストの池上さんへの感想です。

 

 前略 昨日は楽しい時間をありがとうございました。高校時代、物理だけは赤点を心配したことがあるので、お話をうかがってもわかるかどうか不安でしたが、それは杞憂であったことがすぐにわかりました。参考図書に挙げられていた『天才の世界』(湯川秀樹著、知恵の森文庫、光文社)も、まだ途中までしか読めていませんが、昨日のセミナーと同じような印象を受けました。難しいことのはずなのに、ことば巧みにご自分の土俵に引き込んで「わかったような」気持ちにさせる。(笑)誤解を招く表現かもしれませんが、人はわかった気持ちになるのは気持ちいいものだと思います。

 こんなことを申し上げては失礼かもしれませんが、「僕の専門ではないのですが」というようなことをおっしゃりながら、更に素人であると想定される参加者のために、特に理論物理学の説明の部分は、かなり丁寧に準備していらした印象を受けました。おかげさまで、本で読んだだけだったら、かなりの確率で読み飛ばしていただろうあの「図」も、真剣に見て理解しようとしましたし、「入って出ていく」のがわかったような気がします。どこかで読んだ人工知能(AI)にとって代わられない職業の中に先生が入っていたのは、こういうことなのでしょう。聞き手の理解に合わせて、話のテンポを変えたり、足りなさそうな情報を補ったり「臨機応変」に対応するのは、なんとなくAIには無理そうな気がします。ましてや、自分のツボにはまると暴走気味にその話を続けていく技はAIには限りなく無理だと思います。(笑)でも、そういう話には聞き手は引き込まれていくし、もっと知りたいと思うものなのではないでしょうか。

 私が物理が苦手というか受け入れられなくなった(最近は受け入れようと努力しています)のは「光は波だ」って、ところからなのですが、昨日のお話をうかがって、なんとなく腑に落ちました。私は習っていた頃、理論物理学を「理論」だと理解できなかったんだと思います。今なら「多変量解析でn次元でベクトルを回転させる」みたいな話も「ふ〜ん」って、聞けているような気がするので、あの頃はレディネスが整ってなかったのかなと思います。私たちが普段使っている言葉と言語学の関係が、現実社会と物理学の関係なのかな?と勝手に理解しました。

 全体を通して、北川さんは過去の話をしたい人で、池上さんは未来の話をしたい人という印象を受けました。過去の話は「分析」になるだろうし、未来の話は「創造」につながると思います。そういう意味で「天才」をコインの表裏のように見せていただいたような気がします。

 過去の話をするには、私の知識が圧倒的に不足しているので、ここでは未来の話を書きたいと思います。現実社会(存在)と理論(認識)を結ぶπ中間子のようなものは存在しないのでしょうか?北川さんのお話から考えると、それが芸術(アート)なんだと思います。ただ、それが池上さんのおっしゃった2008年以降は「事実があり余っている」せいで、単にアートだけでは収まらなくなってきているような気がします。そこに科学や哲学など様々な要素を含めないことには、存在と認識をつなぐことができなくなっている?という感じでしょうか。私が「複雑系」という言葉から受ける印象はそのような感じです。

 途中で渋谷慶一郎さんがいらっしゃったので、その例としてSkeltonの話がうかがえるかと色めきだったのですが、それはあまりにも贅沢な望みでした。科学未来館での公開ワークショップでのSkeltonは圧倒的でした。しかし「Skeltonを作った人たちが天才に近付いたのか?」と問われたらその答えには悩みます。むしろSkeltonが「天才になるかもしれない」とは思えます。そこが湯川秀樹や話題になった空海や啄木との大きな違いのような気がします。天才が創造的なのではなく、創造の究極が天才になる予感という感じでしょうか。 

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今後ますますのご活躍を期待します。

 

For Maria

その人の名はマリア。写真で見たマリアさんは若くて美しい。そして歳をとらない。

 

Keiichiro Shibuya Playing Piano with No Speakers @代官山ヒルサイドプラザ

 

なんとなく、このコンサートについてはこれからも映像などが公開されないような気がするので、忘れないように記録しておこう。

 

大切な人を失った時に最初に起こる感情は驚きや悲しみだ。悲しみは他の人と共感される。悲しみの次には怒りが来る。「なぜ、いなくなってしまったのか」「なぜ、一人にされたのか」この怒りは多くの人には理解されない。そしてその怒りの矛先は理不尽な方向に向けられる。

 

"Memories of Origin"「はじまりの記憶」きっと、渋谷さんはもう一度マリアさんに出会っても、同じように恋に落ちるのだろう。今まで聞いた中で、一番優しい記憶の音。

 

人間の体も楽器の一部なんだなと思う。大きい体の人は大きい音が出るし、力強そうな人は強い音が出る気がする。肉体など感じさせない精神的な崇高さと、生物的なオスとしての扇情的な姿を同時に感じる演奏だった。

 

死者に感情はあるのか?

ロボットに心はあるのか?

 

私は両方ともあると思うのだが、「それ」は私たちには感じられない。自分自身が感じたことを相手に伝えられることをもう少し大事にしたいと思う。

 

 

 

束縛と解放 Shibuya Playing Piano Plus

 sonorium、spiral、そして今年は寺田倉庫。針一本落としても気になりそうなsonoriumやリバーブだけスピーカーで流すspiralに比べたら、今回は縛りのない元倉庫を改造した会場。どこもかしこもコンクリートむき出しで音は跳ね返るし、空調やエレベーターの動作音もそのまま聞こえる環境。もっともこういうほうが私たちの日常に近いかもしれない。非日常の中の日常。たぶん、今回の渋谷はそういう気分なんだろう。

 舞台はない。真ん中の二人を取り囲むようにパイプ椅子が並べられている。当然ながらサクソフォーンはベルの向いている方向に音が飛ぶ。舞台の上ではそれをさらに反響板で客席に向かわせるのが普通だ。今回はそうなっていないので、座る場所によってかなり音は違うのだろう。ならば、渋谷がどのように聞いて音を出すのか聞きたいと思い、そういう場所に座る。

 二人が登場する。菊地のサクソフォーンの音はやはりまっすぐ飛んでくる。しかも広さのあるコンクリートの壁は音をほとんど吸収せずに反響させる。その音に対して、渋谷のピアノは敢えて挑むように誘っているようだ。座っている席からは渋谷の動きが良く見える。私には1音に聞こえる音でも、指の動きは同じキーの上をかすかに上下する。ものすごい速さで鍵盤の上を指が走る。これ、全部どの音が出るかわかっててコントロールするのは、とても気持ちのいいものなのだろう。音だけではなく動き。

 休憩後、戻ってきた菊地が床にあった蛍光灯につまづいた。(エフェクターじゃないので、足で直すのは良くないと思った。)今回の照明担当は涌井という若いアーティストだという。蛍光灯は普段気にすることは少ないが、反射板でその光をコントロールしている。だから、天井からぶら下がった反射板のない蛍光灯を見たときに、どうやってこの光を使うのだろう?と思った。電圧を変えることによって、光を動かしていたことを渋谷の説明で知ったが、元々四方八方に広がる光源の設計だったらどうなったんだろう?

 二人の演奏は4曲を除いて即興ということだった。感じているままに音にする。それが絡み合う。もし、ここに歌があったらどうなるか? 言葉があると音と一緒に「意味」を運んでしまう。もちろんその言葉をどのように解釈するかは聞き手の自由だが、それは即興の「自由」を奪う。ゆえに最後の菊地のスキャットはとても納得がいった。(この日フランス語が流れた時もあったが、私には理解できないフランス語は私には意味を伝えない。)

 ソワレは森山のダンス。マチネの渋谷や菊地の指使いと同じように、こんなに体が自由に動かせたらどんなに気持ちがいいんだろうと思う。マチネの時のように渋谷は挑発しない。ただ最初少しだけ、自分とは違う表現方法を持っている森山に対する嫉妬のようなものが見えた気がする。それをしなやかに森山は受け止め表現する。そこから先は異質な才能が絶妙のバランスで重なり合って表現されていった。

 ブラボー、ブラボー。

 一人でしかできないこと。一人ではできないこと。可能性は広がった。

Playing Piano with Speakers for Reverbs Only

そのコンサートの最初の音は、まるで教会の鎮魂の鐘の音のようだった。

渋谷慶一郎、音楽家。彼はあの日パリにいた。刻々と呟かれる状況は、日本の報道とは裏腹な何かを伝えていた。3.11の時、東京にいる私と他のところにいた人たちの気持ちはこんなだったのだろうか。あの日の後、11月25日に開かれるイベントについて、共演者のフランス人チェリストギャスパークラウスからの返信として「そう思う、僕たちはやるべきことをやるだけ、音楽とダンスとペインティングは僕たちの美しい兵器だから」と書き込んでいた渋谷。今日のコンサートもそうなのだろう。

街角の子供達のざわめきのような調べ。次の世代はこうなってほしい。ダイナミックな展開。音がたくさんありすぎて落ち着かない。9月にsonoriumで開かれた同じく生音のコンサートの冒頭は、音が固くて泣きそうになった。(音が固いという表現を英語でも使うのだろうか?ピアノのキーの上に虫がいたらしい。)それとは別の大きな何かに飲み込まれそうな不安感。今回のコンサートは、生音の残響だけをスピーカーでコントロールするという特殊な方法だそうだ。手を誰かに握っていて欲しいようなそういう気持ちになる音。

どの辺りからだろう?ふっと力が抜けて、音に身体を任せられるようになったのは。ああ、こういう風に楽しめばいいんだ。そして、休憩。

休憩後は、たくさんの楽譜を整理してからの再開。いろいろな大きさ、いろいろな音符の書き方。どれも「本物の」自分の楽譜なのだろう。私はピアノが弾けない。どんな楽器も弾けない。だから、演奏している指の動きを見ているだけでもとても新鮮な気持ちになる。この瞬間のこの動きで生み出される音は、一度きり。プロの演奏家なのだから同じように弾けることはあっても、誰かの息遣い身体の動きまで含んだ、私のいるこの場所でのこの音は一度きり。

この曲ってこんな悲しい気持ちになる曲だっけ?タイトルからすればそうなんだけど。誰かが立てた物音が現実に引き戻してくれる。

元々ピンスポットだけだった照明が更に落ちていく。村上春樹が物語を語ることを「心の闇の底に下降していくこと」と表現していたけれども、渋谷の心の底に一緒に降りていくような錯覚。ぼんやりと、でもそこには光があった。

sonoriumの時も「アンコールも拍手もなし」と言っていた渋谷。でもドアの向こうに消えてから戻ってきた。それも2回も。冬の陽だまりと暖かな炎のような終わり方だった。

当日の音は1月末以降にダウンロードできるらしい。

ロボ婚について考えてみる

 映画館で見た映画の中で、一番大泣きした映画は『A.I.』という映画だ。当時、普段泣き顔を見せるような関係でない普通の友人達と見に行ったのに、もう涙が止まらなくなってどうしようもなかったのを覚えている。
 先週末、ロボット同士の結婚式『ロボ婚』が行われた。twitterでの情報によると『土佐さんには「日本の結婚式文化の異常さを強調したい」という意図があったそうで』たしかに2台のロボットでできる日本の結婚式でよくある演出がなされていた。
 その演出の1つ乾杯の挨拶で、稲見先生がロボットを作る理由は「人の役に立つ」「表現の一環として」「人自身を知るため」だと紹介している。その上で、今回のロボ婚は「結婚、あるいは社会制度をモデル化」するという意味で意義があると位置付けている。
 社会制度とは人と人との関係性を表すものである。人が人自身を知るために作ったロボットで、人と人との関係性をモデル化する。もちろんその先にはそのモデルを再構築する可能性を含んでいるのであろう。
 今回のロボ婚では、それぞれのロボットの特徴的な外見が注目を集めている。百聞は一見に如かず、である。(とりあえず私が今回の件で知ることになった新郎ロボットのことは横に置いておこう。)新婦ロボットの特徴は視線だ。人にとって「見る/見られる」とは何か? その対象が人であった場合、それは人との関係性に他ならない。『扇情的な鏡』では様々な自己を見つめることによって、自分の内面を再確認する。一方でこの新婦ロボット、ロボリンは自己ではなく他者であり、この姿形であることでその関係性に「異性/同性」という視点も加えられている。
 見るという「私」の行動が、見られている対象(この場合はロボリン)の気持ちに関わらず、見ている「私」を見つめ返す。これをどうとらえるかは、その状況をどこから見ているかによって異なるはずである。単純に考えても、「私」目線で考えるか、ロボリン目線で考えるか、どちらからも切り離して劇場的に考えるか、それぞれ違う感じ方ができよう。これはロボットを介していても、人自身の関係性を考えることに他ならない。

<まとまらないので最後感想>
 稲見先生がスピーチの最後に広瀬茂男先生のお話として「ロボットは『無私』であり『聖人』に近い存在である」という話をされていた。だから、『A.I.』であんなに泣いちゃったのかなあ、とか。演出だって言われても、最後の『関白宣言』ウルっとさせられたよなあ、とか。「無私」なロボットに「私」を与えようとしても、それは人が考えているかぎり、人の「私」のコピーでしかなく、ロボットの「私」にはならないんだろうなあ、とか、考えました。