Parade for the End of the World

 私は記憶力がいいほうだと思う。写真のように映像が頭に残ることもあるし、物語として言葉で語れる記憶もある。今回のこの公演はその私の記憶の力に揺さぶりをかけてきて、記憶力がいいと思っていた私には、いささか不本意であった。

 まず情報量が圧倒的に多い。例えばミュージカル映画『ララランド』にしろ、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの音楽にしろ、ストーリーがあってこその音楽だ。しかし、このParadeは違う。音楽・映像・ダンスのそれぞれが独立していながら、ストーリーとの関係性を保っている。音楽・映像・ダンスを底辺にもう一つの頂点にストーリーを置いた三角錐のような作りになっている。独立しているので、音楽だけに気持ちを傾けようとすると落ち着かない。かといって、音楽もダンスも映像も同じぐらい気持ちを入れるとその情報量に付いていけずに途方にくれる。舞台にいる3人は制作にあたって延々と議論を続けたそうである。そのような議論が絶妙なバランスを生み出したのであろう。

 映画などで走馬灯のように過去の出来事が駆け巡るような場面がある。Parade全体はちょうどそのような構成だった。for the End of the Worldのサブタイトルのように、個人の死の直前のようでもあるし、もっと大きく人類滅亡へのパレードのようでもある。楽しいこと、美しい思い出はゆっくりと思い出され、目まぐるしい変化は音と映像で表現される。

 そんな中で、唯一人間として舞台に登場するのがジェレミー・ベランガール。パリオペラ座の元エトワール。多くのダンスファンは、彼の美しい踊りを期待していたのだと思うが、この作品での彼は道化である。自分の意思とは異なる大きな流れの中で翻弄される人間。それは個人の人生でもそうであるし、人類としても同様である。DNAレベルまで解析されようがクローンが作られようが、私たちは生命の神秘の謎を解き明かすことはできないはずだった。もしその謎が解けたなら、それは正しくParade for the End of the Worldである。

 私は渋谷のファンである。今回、この作品に関して彼は様々な場面で解説をしてくれている。なのでそれをここで今更書くのは野暮であろう。彼のInstagramに度々登場するチャーミングなジェレミー・ベランガールを生で見られて嬉しかった。ただ、今回の一番の収穫は映像を担当するジュスティーヌ・エマールだったと思う。次にどのような作品を見せてくれるのか楽しみで仕方がない。

 記憶力の良いはずの私が、消化不良を起こすほどのこの作品。もう一度見たい。