Imagine Cup Japan 2015

 久しぶりにこの手のものでワクワクするものを見た。忘れてしまわないうちに感想を書いておきたい。Ustreamでも中継していたようだけど、現場で見られる東京ステキ。

 技術的なことはよくわからないけど、大人目線で見ると「すごーい」とか「上手いな」っていうのは、たぶんビジネス界ではできてしまうようなものなのだろう。どうしてそれが世の中に出ていないかと言えば、「すごく」お金がかかるとか、時間がかかるとか、できないんじゃなくてやらないんだろう。だからこういうコンテストで大人が求めるのは、そういうのじゃない「なにか」。Imagine Cupはその「なにか」を探す取り組みなんだと思う。もちろん、探すのはImagine Cupに参加資格のある学生だけじゃなくて、大人もだ。

 今回見ていて一番、驚いたのは審査員達だ。全然予備知識なく行ったので、最初に登壇した伊藤さんの赤いワンピースや砂金さんの白地に柄の入ったジャケットを見て「あーあ、アメリカのIT企業。やっぱりなあ」って、決してポジティブではない印象でスタート。が、それは最初のプレゼンテーションの後、簡単に覆された。どの審査員も、そのコメントの答えをチームに求めれば、そのチームの良さが引き出されるかを考え抜かれたようなコメントなのだ。過剰な賞賛やおだてではなく、その良さを認めた上で「どうすれば次に繋がるか」あるいは「ここが足りないのではないか」という指摘。参加者と審査員の関係が、たぶん審査員たちも今は審査員という立場だけれど、そうやって育ててもらって、今の立場にいるんだろうなあということが想像できるような関係性。日本のものづくりは、こうやって続いてきたんだろうなあ。

 結果は私の中では、CHILDHOODとすくえあの一騎打ちだった。どっちが選ばれてもおかしくないと思った。だからこそ、残念だと思ったのはCHILDHOODの「時間を越える」という話が最後にでてきたことだ。「ああ、これってそういうことだったんだ」って、本当に最後の最後にわかった。そして「小さいときに戻ったら、どんな気持ちになるか」という最初のひらめきにどうしてもっとこだわらなかったのだろう。「お母さんや保育士さん、子供に関わる人達に体験してほしい」って、言ってたと思うのだけど、本当に必要なのは母親じゃなくて父親なんじゃないかな?(彼らのイメージしている役割分担なら)。子供に接している人なら、子供の目線がどの辺りにあるかはたぶん無意識で感じていると思う。それを意識化することに意味があるなら別だけど、むしろ無意識に感じていない人こそ必要なんじゃないかな?藤井先生のSRを体験して、目の前に提示されれば、過去のことでも私の視覚は簡単に騙された。だから、リアルタイムの映像でなくても「ハコスコでもいいのでは?」の砂金さんのコメントには頷けた。目の前の現実にこだわらなければもっと”CHILDHOOD”を体験できる気がする。

 一方、選ばれたすくえあの心配は、言葉の壁だ。あれだけの技術をうまく説明できてない部分があったから、技術的なことがわからない私は自分の中で想像で補ってより大きい可能性を見いだしたような気もする。あのプレゼンテーションが英語になったらどうであろう。同じように自分の中で補完するのだろうか?何より”SCREEN feels AIR.”は、本当に彼らが考えているような意味で理解されるのだろうか?私自身、この文?(たぶん、最後にピリオドがついているから文)を、正しく理解できているかどうかわからない。だから、どういう意味なのかその部分を審査員はさりげなく質問していたような気がしたけど、答えられていなかった。

 審査員の質問と言えば、P.M.Karaokeへの「何時でもの割合が少ないのではないか?」というのももしかしたら意味深な質問だったのかもしれない。54人?(違うかもしれない)へのアンケート結果をパーセンテージで表すのは、プレゼンテーションとして適切なのだろうか?人数にしておけば、「このうちの何人かはこういうコメントをしました」というのがより効果的になる気がする。

 プレゼンテーションは難しい。シアトルでの世界大会だからって、アメリカ人発表者のTEDのような欧米型のプレゼンテーションをしても、たぶんかなわない。今回だって、RTableProjectのあのノリは、やっぱり大阪の専門学校のチームだからできるし、真似できないと思う。でも、どうしたらいいのかはわからない。それもImagine Cupが探している「なにか」の一つのはず。

 ともかく、愛のある発表&審査であった。