束縛と解放 Shibuya Playing Piano Plus

 sonorium、spiral、そして今年は寺田倉庫。針一本落としても気になりそうなsonoriumやリバーブだけスピーカーで流すspiralに比べたら、今回は縛りのない元倉庫を改造した会場。どこもかしこもコンクリートむき出しで音は跳ね返るし、空調やエレベーターの動作音もそのまま聞こえる環境。もっともこういうほうが私たちの日常に近いかもしれない。非日常の中の日常。たぶん、今回の渋谷はそういう気分なんだろう。

 舞台はない。真ん中の二人を取り囲むようにパイプ椅子が並べられている。当然ながらサクソフォーンはベルの向いている方向に音が飛ぶ。舞台の上ではそれをさらに反響板で客席に向かわせるのが普通だ。今回はそうなっていないので、座る場所によってかなり音は違うのだろう。ならば、渋谷がどのように聞いて音を出すのか聞きたいと思い、そういう場所に座る。

 二人が登場する。菊地のサクソフォーンの音はやはりまっすぐ飛んでくる。しかも広さのあるコンクリートの壁は音をほとんど吸収せずに反響させる。その音に対して、渋谷のピアノは敢えて挑むように誘っているようだ。座っている席からは渋谷の動きが良く見える。私には1音に聞こえる音でも、指の動きは同じキーの上をかすかに上下する。ものすごい速さで鍵盤の上を指が走る。これ、全部どの音が出るかわかっててコントロールするのは、とても気持ちのいいものなのだろう。音だけではなく動き。

 休憩後、戻ってきた菊地が床にあった蛍光灯につまづいた。(エフェクターじゃないので、足で直すのは良くないと思った。)今回の照明担当は涌井という若いアーティストだという。蛍光灯は普段気にすることは少ないが、反射板でその光をコントロールしている。だから、天井からぶら下がった反射板のない蛍光灯を見たときに、どうやってこの光を使うのだろう?と思った。電圧を変えることによって、光を動かしていたことを渋谷の説明で知ったが、元々四方八方に広がる光源の設計だったらどうなったんだろう?

 二人の演奏は4曲を除いて即興ということだった。感じているままに音にする。それが絡み合う。もし、ここに歌があったらどうなるか? 言葉があると音と一緒に「意味」を運んでしまう。もちろんその言葉をどのように解釈するかは聞き手の自由だが、それは即興の「自由」を奪う。ゆえに最後の菊地のスキャットはとても納得がいった。(この日フランス語が流れた時もあったが、私には理解できないフランス語は私には意味を伝えない。)

 ソワレは森山のダンス。マチネの渋谷や菊地の指使いと同じように、こんなに体が自由に動かせたらどんなに気持ちがいいんだろうと思う。マチネの時のように渋谷は挑発しない。ただ最初少しだけ、自分とは違う表現方法を持っている森山に対する嫉妬のようなものが見えた気がする。それをしなやかに森山は受け止め表現する。そこから先は異質な才能が絶妙のバランスで重なり合って表現されていった。

 ブラボー、ブラボー。

 一人でしかできないこと。一人ではできないこと。可能性は広がった。