Playing Piano with Speakers for Reverbs Only

そのコンサートの最初の音は、まるで教会の鎮魂の鐘の音のようだった。

渋谷慶一郎、音楽家。彼はあの日パリにいた。刻々と呟かれる状況は、日本の報道とは裏腹な何かを伝えていた。3.11の時、東京にいる私と他のところにいた人たちの気持ちはこんなだったのだろうか。あの日の後、11月25日に開かれるイベントについて、共演者のフランス人チェリストギャスパークラウスからの返信として「そう思う、僕たちはやるべきことをやるだけ、音楽とダンスとペインティングは僕たちの美しい兵器だから」と書き込んでいた渋谷。今日のコンサートもそうなのだろう。

街角の子供達のざわめきのような調べ。次の世代はこうなってほしい。ダイナミックな展開。音がたくさんありすぎて落ち着かない。9月にsonoriumで開かれた同じく生音のコンサートの冒頭は、音が固くて泣きそうになった。(音が固いという表現を英語でも使うのだろうか?ピアノのキーの上に虫がいたらしい。)それとは別の大きな何かに飲み込まれそうな不安感。今回のコンサートは、生音の残響だけをスピーカーでコントロールするという特殊な方法だそうだ。手を誰かに握っていて欲しいようなそういう気持ちになる音。

どの辺りからだろう?ふっと力が抜けて、音に身体を任せられるようになったのは。ああ、こういう風に楽しめばいいんだ。そして、休憩。

休憩後は、たくさんの楽譜を整理してからの再開。いろいろな大きさ、いろいろな音符の書き方。どれも「本物の」自分の楽譜なのだろう。私はピアノが弾けない。どんな楽器も弾けない。だから、演奏している指の動きを見ているだけでもとても新鮮な気持ちになる。この瞬間のこの動きで生み出される音は、一度きり。プロの演奏家なのだから同じように弾けることはあっても、誰かの息遣い身体の動きまで含んだ、私のいるこの場所でのこの音は一度きり。

この曲ってこんな悲しい気持ちになる曲だっけ?タイトルからすればそうなんだけど。誰かが立てた物音が現実に引き戻してくれる。

元々ピンスポットだけだった照明が更に落ちていく。村上春樹が物語を語ることを「心の闇の底に下降していくこと」と表現していたけれども、渋谷の心の底に一緒に降りていくような錯覚。ぼんやりと、でもそこには光があった。

sonoriumの時も「アンコールも拍手もなし」と言っていた渋谷。でもドアの向こうに消えてから戻ってきた。それも2回も。冬の陽だまりと暖かな炎のような終わり方だった。

当日の音は1月末以降にダウンロードできるらしい。