超人五輪

少し前のことだが、2月28日3月1日に開催された#4th KMD forumに行ってきた。そのとき見た超人五輪について妄想を膨らませたので書いてみたい。詳しくは、Superhuman Olympics を参照。

シンポジウムで一番惹かれたのは、クディッチ。ハリポタに出てくるあの架空の球技がもしかしたら実現できるかも?ということらしい。帚には乗れなくても、水上ならかなりジャンプできるようになっているようである。Hiyoshi Jump もそうだが、やっぱり空を飛べるとかなり超人っぽい。

超人というのなら、補助的な力を貸してくれる脚(これも義肢というのかな?)を付けて、ボルトと同じ速さで100m走ってみたい。きっと、誰がその脚を付けて一番速いかを見るのと同じぐらい楽しいはず。脚だけ速く回転しても転んじゃうかもなあ。そうなると宇宙服みたいな全身に工夫が凝らされたスーツになるのかなあ。

スケルトニクス で「バスケットとかをしたら面白いんじゃないか」とデモのときに説明されてたけど、う〜ん、ちょっと危ない。接触する可能性のあるスポーツは、やっぱり「拡張」されてると怪我が増えるような気がするなあ。

と、ここまで考えてきて、いいことを思いついた。もしかしたら、超人「五輪」だからちょっと敷居が高くて、これを「超人運動会」にしたら意外と楽しいかも、なんてね。

ケルトニクスが参加するのは、「玉入れ」。周りに何体もスケルトニクスがいても、味方同士だから押し合ったりしないはず。玉を入れるのより、しゃがんで玉を取るほうが難しいかもなあ。股関節とか固そうだったし。

ヒューマノイドとの「二人三脚」も楽しそうだ。脚とか腕は軽くなってるといいなあ。繋がってる所が、金属の重さだったら大変。それから、ちゃんと人と同じように走れないと転んじゃうな。あと、身体が当たる部分だけでも、柔らかいといいなあ。

スパイダービジョン を使うのは、「大玉転がし」。もちろん、普通にやったらつまらないから、後ろ向きに玉を運ぶ。大体スポーツのルールなんて、理不尽なんだから(サッカーで手を使っちゃいけないとか、ラグビーでボールを縦にパスしちゃいけないとか)、この大玉転がしは、スカラベ(フンコロガシ)みたいに逆立ちして、バック走ぐらいでもいいかもなあ。

東京に出てきて、こんな都会でも地域の運動会や盆踊りがあるのに驚いた。こういうのがあるってことは、やっぱり楽しいからなんだと思う。「運動会」ってとても日本的な行事のような気もするんだよな。だから、単なるスポーツイベントじゃない日本の姿を知ってもらうのにも役立つかもね。

Where am I? Media Ambition Tokyo 2014 @Roppongi Hills

Media Ambition Tokyo 2014 @Roppongi Hills

“Media Ambition”と思っていても、頭の中ではambition(野心)という言葉がart(アート)になってこの展示を思い描いていた。でも、これはartとは違う何かだ。

お目当ては、”filmachine”と『扇情的な鏡』。

まずは、”filmachine” から。事前情報から想像していたのは、退廃的でエロティックなもの。もしくは、一人では耐えられないような、隣にいる人を掴んでしまうような、恐怖心を煽るもの。

結果はそのどちらでもなかった。

私が行ったのは平日の昼間だったので、幸運にもあの空間を独占できた。(途中で入ってきた何人かの人は、あのスイッチの横でライトを消して佇んでいる私に驚いたに違いない。)不幸だったのは、そうやって誰かがスイッチを押して出て行った所に入っていったので、いつ始まったのかわからないタイミングで入ってしまったこと。

私にはアルゴリズムは感じられなかった。私が感じたのは、闇。目を開けているのか閉じているのか分からない。でも、想像していたような恐怖心はない。そして、人が隣にいてもいなくてもわからないぐらいの「ただ自分がいるだけ」という感覚。光は光っているときではなくて、むしろ消えたときに残像として目の中に残る。まるで、自分が透明な存在になって闇に溶け込んでいるかのような感覚。そして、音が自分を通過していく。

途中からの回が終了し、スイッチを押してもう一度。もう一人一緒に体験している人がいたけど、やはりその存在は感じない。終わる直前はやや穏やかな刺激になって終了。

そして、『扇情的な鏡』 。filmachineでヘロヘロの私のどれが本当の姿かわからない。なのに、自分の意識の中では、笑っている顔に見えるのが「今の自分」だと思おうとしてるのが可笑しい。もしかすると、このどんよりした顔のほうが真実に近いかもしれないのに。真実より理想を真実と思おうとしているなんて。

話には聞いていたけど、ものすごくカップル率の高い展望台を脱出して地下鉄の駅へ。六本木ヒルズ内で迷う。この辺りまでは普通だった。ここから先は、後からになって思うことも付け加えながら書く。駅のホームへ着いた辺りから、聴覚が過剰反応していることに気付く。元々疲れると、人との会話の理解にほんのわずかな遅延が起こったり、周囲の音がうるさすぎると感じる傾向はある。が、今回は生の人の声はうるさいと感じないのに、駅構内のアナウンスや列車の音やBGMがまるでfilmachineの中のように身体にまとわりついてくる。刺激への反応に偏りがある。

街の中で音から逃げることは不可能だ。(そのほうが気が紛れるから)なるべく周りの人の声を探しながら、本屋へ向かう。本屋で本を探しているうちに、音の刺激が段々気にならなくなっていった。「治ったか?」と思いながら駅へ向かう。先ほどよりは楽になっているけど、本を探していたときよりはやはり音に反応している。

今までは五感で得る「感覚」も「感情」も、自分自身のものだし、自分で掌握しているものだと思っていた。しかし、ほんとうはそれは錯覚ではないのか? 「鏡を見る」「本を探す」という主体的に視覚を使っているから、知らず知らずのうちに聴覚の刺激への反応は鈍感にシフトしているのではないか? また「笑顔」という視覚情報は、「楽しい」という感情を引き起こしているらしい。これだけ、脳が騙されている(?)のなら「本当の自分」はどこにいるのだろう?

犬のための建築

「犬のための建築」展 @TOTO GALLERY・MA

「犬のための建築」展なるものを見に行った。http://architecturefordogs.com/ja/ 見に行く前は、「『犬のため』の建築なんて、俗物的だなあ。お金持ちの遊びっぽいよなあ。海外でもやってるし。」などと思っていた。愛犬家の建築家たちがやっているらしいけど、サイトのトップページに写っている犬たちはたぶん、モデル犬でますます現実味がないように見えた。でも、まあ、久しぶりに都心に出かけたので、見に行ってみようと思った。

デザインと芸術(アート)は違う。私の中では「デザインには意図があり、芸術には意思がある」と思っている。デザインというときは、作者以外の第三者の存在を感じる。作者が「見せよう」「使ってもらおう」「感じてもらおう」などと思ってつくっているというか、とにかく誰かに何かを伝えている感じがする。一方で、芸術作品と言われるものはどちらかといえば自立している感じがする。作者が「つくりたい」と思っている気持ちが先行しているというか。もちろん、意図と意思は対立する概念ではないので、その境界線は曖昧だ。特に、建築と言うのはその境界線が曖昧だと思う。

この「犬のための建築」展は、「犬のため」となっているが、実はそれぞれの建築家の「哲学」みたいなものが語られているような気がする。(普段、哲学なんて言葉を使わないので、この言葉の使い方があっているのかどうか自信はない。)会場でメモしてきたのだけど、実際にはウェブサイト上で公開されていたので、そのままリンクを貼ろう。

トンネルの階段を駆け上がると人間と程よい高さで向き合える。人間のスケールと犬のスケールを平衡させる、言わば、尺度を調整する装置を考えてみた。展覧会の立案者として、未成熟かもしれないが、このプロジェクトの視点を体現する試みを、先んじて演じてみる必要があった。ここでは尺度の平衡という課題を想定してみたわけである。人間は自分たちのスケールに合わせて環境をデザインしてきた。たとえば、階段のステップ約15センチで世界共通である。これは人間の背丈や脚の長さによって自然に決まってきたものだ。椅子の高さやテーブルの高さ、ドアというものの存在や大きさも、さらに言えば家の大きさも都市の大きさも人間が人間の身体を前提に決めたものである。D-TUNNEL BY KENYA HARA

使い道を考えない建築物は存在しにくい。しかし、その建物を人が使用する以上どんなに小さくとも人より大きいものにする必要がある。また、先の引用にもあるように、実は人という生物は世界共通の階段のステップを生み出してしまうように、多様性は少ない。それに比べて犬はどうだろう。私たちの人間の尺度からすると、大きかったり小さかったり毛が長かったりバリエーションがある。また、犬種によってある程度性格がイメージされる。

なるほどなあ、と思った。

私は行ったことがないので、あくまで想像なのだが、住宅展示場に行ってもこのような気持ちにはならないだろう。それはこの「犬のための建築」が「犬」への思いが具現化したものだからなのだろう。実物には二次元のネット上では伝わらないなにかがあった気がする。

追記:建築そのものではないけれど、2階の展示も楽しいです。つい覗いてみたくなるように作られていたこれが好きです。

「拡張する脳」 藤井直敬

私は魂の存在を信じています。人が死んでも魂はこの世に残るみたいな感じです。今までの人の死の数だけ魂も存在しているので、この世の中は魂でいっぱい。そんな考え方の私の前に立ちはだかるのが脳の存在です。死んで肉体がなくなる=脳が働かない=魂は考えたり感じたりできない。魂は有形の存在もしないし、無形の思考もない。矛盾だらけですが、それでも魂は存在していると思います。

「科学研究において、再現性はとても大事な柱です。」
ある実験をして、例えばサルの実験で同じ部位が反応していることが確かめられます。私にも同じことが起こると仮定しましょう。同じものを見て、同じ部位が反応します。でも、本当に私が「感じていること」は同じなの? 感じていること(無形)と反応している部位(有形)を繋いでいるプラットフォーム(というのでしょうか?)が、脳なのでしょうか。

「ある瞬間、あなたが瞬きをする前後、つまり目を閉じ、次に目を開いたときに『この世界』と『もう一つの世界』が切り替わったとします。あなたは、この切り替えに気づけるでしょうか。」
SRシステムを体験してみたいです。そこで意地悪な私は、目を閉じ目を開けません。被験者のささやかな抵抗。そのとき、私の脳はどのように変化するのでしょう。私を観察している人は、私がエイリアンヘッドの中で目を閉じていることに気が付くのかなあ。

全ての感覚の中で、科学の力を借りなくても自分の意思だけで刺激を受けるのを拒否できるのは視覚だけのような気がします。他の感覚は刺激を与えられたら反応することを拒否できません。無音室にいたとしても自分の呼吸音を感じてしまいます。でも、目だけは閉じれば見えません。だから、脳の反応も他の感覚とは違うような気がします。

もし、私が自己完結している存在だったら、私に脳は必要ないのでしょうか? 植物に脳がないように。植物に脳がないのは動けないからだと思っていました。動物に脳が必要なのは、動き回れて他者との関係性を結ぶ必要があるからなのでしょうか。それが社会脳なのでしょうか?

脳科学研究の副産物であるSRシステムが、あらゆる出来事を自分のものとして体験できる体験プラットフォームとして社会に溶け込んでいってほしいと思っています。」
SRシステムは副産物だから、やっぱり面白いのは脳科学研究そのものなんですよね?

風立ちぬ

初めてジブリ作品を映画館で見た。夕方の回とはいえ、平日なのにほぼ満員。老若男女様々な人たち。終了後、孫が途中寝ちゃってたことをじいちゃんが笑いながら私の横を通り過ぎていく三世代家族。そういう作品。

家族な話。

いろいろな形の家族の関係が描かれる。兄と妹。父と娘。主と使用人。母と息子。夫と妻。

菜穂子のように愛されていれば幸せだろうなと思う。と同時に今の自分がそうでないから感情移入できないんだろうなとも思う。二郎は菜穂子をこんなに思っていた。これほどストレートに表現されていることに驚いた。宮崎吾朗監督が「初めて宮崎駿を誇りに思った」とコメントを寄せたということを「週刊文春」で川上量生さんが書いていたが、私が吾郎監督の立場だったとしたら同じように思ったかもしれない。

この作品の中で、印象に残った花が2つある。一つはオオバコ。子どもの頃、オオバコ相撲をしたりして遊んだ野に咲く花。調べてみると、ドイツの話で戦地に赴いた夫を待ち続けた妻がその姿に変わったという話があった。また、泉で菜穂子と二郎が再会する前に描かれる(たぶん)ネジバナ。この花の花言葉は「思慕」。菜穂子も二郎のことを思っていたんだなあ。

この話の中で、二郎の父は登場しない。二郎の妹の加代が「お父さまは許してくれない」と自分の将来を語るエピソードで話題にのぼるだけだ。

父の不在。

この作品は私がこれまで見てきたジブリの作品と違って、「過去」の話だ。現在形で話が進められていても伝わってくるのは「回想」のイメージである。観客も自分の経験と重ね合わせる。冒頭の三世代家族のように、年配の観客が思っている以上に多いのも納得できる。

宮崎監督が父と息子の関係を描かなかったのは偶然なのか意図的なのかはわからない。しかし、この作品の冒頭は「コクリコ坂から」へのオマージュなのかと思うほど、緑の色使いや建物に既視感があった。

鈴木プロデューサーが「宮崎駿の最後の作品かも」と言ったところ、宮崎駿監督がそれを否定したという話を読んだような気がする。駿監督としては、吾郎監督に挑戦状を突きつけたというところだろうか? 吾郎監督の次回作にも期待したい。

drinamiさんとshi3zさんに聞いてみたい

昨日、書く前にビール飲んじゃったのは、失敗かもなあ。

学生の頃、教授秘書のバイトをしていて聞いた話。(コピー取りだからまさに門前の小僧っぽいな)

教育とは、教育目標があって、それを達成するための教育方法があって、それに似合った学生を見つけるためのアドミッションポリシー(AP)がある。目標・方法・APは三角形の頂点のようにそれぞれ関係していなければならない。

今回センター試験の廃止の話がでているけど、どうなんだろう。
「新テスト、AO・推薦入試に活用も センター試験廃止へ」

最初APと言えば、慶應という感じだったから、shi3zさんが「慶應の人には特有の選民意識がある」というのは、上の「目標・方法・AP」がうまく機能しているからに違いない。drinamiさん、いかがでしょう? そして、だからこそ今回のように試験の方法だけが注目されるのがわからない。

分かりやすい数で言うと、100人の定員の大学に1000人の志願者がいたとする。現在のセンター試験&2次試験で選抜した合格者100人と新しい「到達度テスト」で合格した100人にどれぐらいの違いがあるのだろう? 合格者になる上位10%ならほとんど違いがないのではないだろうか。

「何人ぐらい違うのなら、大学としてあるいは企業として新しいことを試すのに意義を感じられますか?」

私が企業を経営していたなら、1人でも違ったら試す意義はあると思う。だって、その1人の能力がその企業の将来を決めるかもしれないから。

でも、教育関係者だったら、例えば10人ぐらい違う(つまり合格者の1割、全体だと1%)だけなら、あまり意義は感じられないかも。だって、方法が変わっても、それだけでは恩恵を受けない生徒が大多数なわけだから。新しいテストになることで、学ぶ内容の質が向上するなら、それは教育的な意義のあること。でも、それなら教育目標とか方法との関連性の確認が先の気がする。でも、そういう報道はされていない。 

アメリカのSAT(特にSAT1)が複数回受験できるのは、受験生に機会を提供する目的だけじゃなくて、テストの信頼度でクレームを避けるためなんじゃないかな、と思う。

同じ形式のテストを複数回実施して、合格最低ラインの人が入れ替わったらダメなはず。同じグループの人が複数回受けても同じ結果が得られること=信頼度が高い。その部分の検証があまり言及されることなく、複数回受験の話が出てくると、センター試験の信頼度ってどれぐらいなんだろ? と思う。

SAT1は在学中の早い時期に点数を取れれば、大学でAP(advanced placementだったっけ?)の受講ができて受験生にも利点がある。ただし、複数回受験できることもあるし、大学入試にかけなければいけないエネルギーはランキング上位校であれば日本以上に必要なように見える。AO(アドミッションオフィス)だって、専門職でAPのことだけをやっているだけだから日本のほとんどの学校の制度とは違うはず。

今回のセンター試験廃止、本当に報道されているような議論でいいのかなあ。本当は報道されていなくても、議論はされているのだろうけど。

今回、drinamiさんとshi3zさんは「研究や教育の目標が違う」所からスタートするのでしょうか? 「目標は同じだけど」からスタートするのでしょうか? いずれにしても高等教育機関での教育や研究で夢も語っていただけるのを楽しみにしています。また、夢が実現されるなら、それを実現するのが大学か企業かということは問題ではない気もします。

shi3zさんに聞いてみたい 2

行ってきました。enchantMOONの「タッチ&トライ」イベント@蔦屋書店。前回のゲンロンカフェでは、後ろにいる人に申し訳なくてあっという間に終わってしまったのですが、今回は一人10分ということで、もう少しお話を伺うことができました。

手書きの部分に関しては、私の書く数字がなかなかうまく認識されない。同じ数字に変換されてしまうことが多かった気がするので、たぶん私の字の書き方のくせなんだろうなあ、と思う。他の人があまり書いてないところだと、アルファベットはやっぱり画面がすべるのでブロック体は書きにくいかなあ。かといって、最近アメリカ式の筆記体は書かないしなあとか思う。

それから、これはスマホとかでもあるんだけど、指が認識されないことがあった。これって、他の人にも起こってることなのかな? ATMで何度やっても暗証番号が入力できないとすごくドキドキしてしまう。「これは私のカードなんだってばっ!」って。もしかしたら、私って実はアンドロイドだったら、どうしよう。。。それで川上さんみたいに叶わぬ恋にしか落ちないようにプログラミングされてるのかもしれない。。。話が逸れた。

手書きデバイスであることばかりが目立ってるような気がするけど、enchantMOONの魅力はプログラミングできるMOONBlockにもあるのだと思う。今回はMOONBlockを見ることができた。「シール」の意味もわかった。私の理解が間違ってなければ、MOONBlockで書き換えることで、私の「シール」とshi3zさんの「シール」が違うこともあるんですよね?

実はプログラミングができるようになるように、全く何も知らない私がハッカーズカフェに通い、頑張ったのはこのMOONBlockを使いこなせるようになるためといっていい。ガジェット好きのパパたちはともかく、ママたちやママじゃないけど私みたいな人はどうやってenchantMOONerにするつもりなのだろう?

プログラミングができると何ができるの? 

例えば、英語ができるようになりたいって人に「英語で何ができるようになりたいの?」って聞くと「旅行」とか「話せるようになりたい」とかって言うけど、実際、日常生活に英語って必要なくない? プログラミングだってそれと同じじゃない?

アルゼンチン人の友人がFacebookにたぶんスペイン語で書き込んだとき、「翻訳する」ってボタンを押したら、「緊急。胃腸器科の医師を知るか?」みたいなのが出た。言葉としてはややぎこちなくても用件は伝わった。やっぱり外国語ってもはや勉強しなくてもいいんじゃない?

プログラミングだって、できなくったって「今は」少なくとも困らないよ。

でもね、英語はできると心は豊かになる気はする。例えば、文法で思うのは「時」の表し方。あんまり得意じゃない完了形とかさ。動詞の形で「〜したことがある」とか経験の意味を表せるって、すごくない? 「〜したことがある」って言葉からは「時間」が感じられないけど、英語の"I have never been to Hong Kong."とかって、時間(この場合は英語でなんていう語を当てればいいのかわからないけど)を無視しては考えられないんだ、みたいな。

語彙だって、日本は雨が多いから一杯雨の付く言葉があるけど、五月雨とか梅雨とか時雨とか小糠雨とかさ。逆に、肉食じゃなかったから、牛肉豚肉鶏肉なんだよね。英語はbeef,pork,chickenみんな別の言葉でしょ? 

じゃあ、プログラミングができると今どういうことができるの? 

"What Most Schools Don't Teach"

これじゃあ、よくわからない。想像力が少なすぎて、イメージできません。以前のエントリーの「Google Spreadsheetのスクリプト昨日で秒速でWebアプリを作ってみる」みたいに、MOONBlockで何か作ってほしいです。

私がMOONBlockとかのビジュアル言語に可能性を感じるのは、外国語で言うと「文法がわからなくても語彙さえあればなんとかなんじゃない?」みたいな感じがするから。ただ、これからshi3zさんが思い描くようにみんながブロックを作って共有するようになったら、それを整理する方法は必要ですよね。図書館分類みたいなやつ?

うわっ、もうこんな時間。