Where am I? Media Ambition Tokyo 2014 @Roppongi Hills

Media Ambition Tokyo 2014 @Roppongi Hills

“Media Ambition”と思っていても、頭の中ではambition(野心)という言葉がart(アート)になってこの展示を思い描いていた。でも、これはartとは違う何かだ。

お目当ては、”filmachine”と『扇情的な鏡』。

まずは、”filmachine” から。事前情報から想像していたのは、退廃的でエロティックなもの。もしくは、一人では耐えられないような、隣にいる人を掴んでしまうような、恐怖心を煽るもの。

結果はそのどちらでもなかった。

私が行ったのは平日の昼間だったので、幸運にもあの空間を独占できた。(途中で入ってきた何人かの人は、あのスイッチの横でライトを消して佇んでいる私に驚いたに違いない。)不幸だったのは、そうやって誰かがスイッチを押して出て行った所に入っていったので、いつ始まったのかわからないタイミングで入ってしまったこと。

私にはアルゴリズムは感じられなかった。私が感じたのは、闇。目を開けているのか閉じているのか分からない。でも、想像していたような恐怖心はない。そして、人が隣にいてもいなくてもわからないぐらいの「ただ自分がいるだけ」という感覚。光は光っているときではなくて、むしろ消えたときに残像として目の中に残る。まるで、自分が透明な存在になって闇に溶け込んでいるかのような感覚。そして、音が自分を通過していく。

途中からの回が終了し、スイッチを押してもう一度。もう一人一緒に体験している人がいたけど、やはりその存在は感じない。終わる直前はやや穏やかな刺激になって終了。

そして、『扇情的な鏡』 。filmachineでヘロヘロの私のどれが本当の姿かわからない。なのに、自分の意識の中では、笑っている顔に見えるのが「今の自分」だと思おうとしてるのが可笑しい。もしかすると、このどんよりした顔のほうが真実に近いかもしれないのに。真実より理想を真実と思おうとしているなんて。

話には聞いていたけど、ものすごくカップル率の高い展望台を脱出して地下鉄の駅へ。六本木ヒルズ内で迷う。この辺りまでは普通だった。ここから先は、後からになって思うことも付け加えながら書く。駅のホームへ着いた辺りから、聴覚が過剰反応していることに気付く。元々疲れると、人との会話の理解にほんのわずかな遅延が起こったり、周囲の音がうるさすぎると感じる傾向はある。が、今回は生の人の声はうるさいと感じないのに、駅構内のアナウンスや列車の音やBGMがまるでfilmachineの中のように身体にまとわりついてくる。刺激への反応に偏りがある。

街の中で音から逃げることは不可能だ。(そのほうが気が紛れるから)なるべく周りの人の声を探しながら、本屋へ向かう。本屋で本を探しているうちに、音の刺激が段々気にならなくなっていった。「治ったか?」と思いながら駅へ向かう。先ほどよりは楽になっているけど、本を探していたときよりはやはり音に反応している。

今までは五感で得る「感覚」も「感情」も、自分自身のものだし、自分で掌握しているものだと思っていた。しかし、ほんとうはそれは錯覚ではないのか? 「鏡を見る」「本を探す」という主体的に視覚を使っているから、知らず知らずのうちに聴覚の刺激への反応は鈍感にシフトしているのではないか? また「笑顔」という視覚情報は、「楽しい」という感情を引き起こしているらしい。これだけ、脳が騙されている(?)のなら「本当の自分」はどこにいるのだろう?