犬のための建築

「犬のための建築」展 @TOTO GALLERY・MA

「犬のための建築」展なるものを見に行った。http://architecturefordogs.com/ja/ 見に行く前は、「『犬のため』の建築なんて、俗物的だなあ。お金持ちの遊びっぽいよなあ。海外でもやってるし。」などと思っていた。愛犬家の建築家たちがやっているらしいけど、サイトのトップページに写っている犬たちはたぶん、モデル犬でますます現実味がないように見えた。でも、まあ、久しぶりに都心に出かけたので、見に行ってみようと思った。

デザインと芸術(アート)は違う。私の中では「デザインには意図があり、芸術には意思がある」と思っている。デザインというときは、作者以外の第三者の存在を感じる。作者が「見せよう」「使ってもらおう」「感じてもらおう」などと思ってつくっているというか、とにかく誰かに何かを伝えている感じがする。一方で、芸術作品と言われるものはどちらかといえば自立している感じがする。作者が「つくりたい」と思っている気持ちが先行しているというか。もちろん、意図と意思は対立する概念ではないので、その境界線は曖昧だ。特に、建築と言うのはその境界線が曖昧だと思う。

この「犬のための建築」展は、「犬のため」となっているが、実はそれぞれの建築家の「哲学」みたいなものが語られているような気がする。(普段、哲学なんて言葉を使わないので、この言葉の使い方があっているのかどうか自信はない。)会場でメモしてきたのだけど、実際にはウェブサイト上で公開されていたので、そのままリンクを貼ろう。

トンネルの階段を駆け上がると人間と程よい高さで向き合える。人間のスケールと犬のスケールを平衡させる、言わば、尺度を調整する装置を考えてみた。展覧会の立案者として、未成熟かもしれないが、このプロジェクトの視点を体現する試みを、先んじて演じてみる必要があった。ここでは尺度の平衡という課題を想定してみたわけである。人間は自分たちのスケールに合わせて環境をデザインしてきた。たとえば、階段のステップ約15センチで世界共通である。これは人間の背丈や脚の長さによって自然に決まってきたものだ。椅子の高さやテーブルの高さ、ドアというものの存在や大きさも、さらに言えば家の大きさも都市の大きさも人間が人間の身体を前提に決めたものである。D-TUNNEL BY KENYA HARA

使い道を考えない建築物は存在しにくい。しかし、その建物を人が使用する以上どんなに小さくとも人より大きいものにする必要がある。また、先の引用にもあるように、実は人という生物は世界共通の階段のステップを生み出してしまうように、多様性は少ない。それに比べて犬はどうだろう。私たちの人間の尺度からすると、大きかったり小さかったり毛が長かったりバリエーションがある。また、犬種によってある程度性格がイメージされる。

なるほどなあ、と思った。

私は行ったことがないので、あくまで想像なのだが、住宅展示場に行ってもこのような気持ちにはならないだろう。それはこの「犬のための建築」が「犬」への思いが具現化したものだからなのだろう。実物には二次元のネット上では伝わらないなにかがあった気がする。

追記:建築そのものではないけれど、2階の展示も楽しいです。つい覗いてみたくなるように作られていたこれが好きです。