ロボ婚について考えてみる

 映画館で見た映画の中で、一番大泣きした映画は『A.I.』という映画だ。当時、普段泣き顔を見せるような関係でない普通の友人達と見に行ったのに、もう涙が止まらなくなってどうしようもなかったのを覚えている。
 先週末、ロボット同士の結婚式『ロボ婚』が行われた。twitterでの情報によると『土佐さんには「日本の結婚式文化の異常さを強調したい」という意図があったそうで』たしかに2台のロボットでできる日本の結婚式でよくある演出がなされていた。
 その演出の1つ乾杯の挨拶で、稲見先生がロボットを作る理由は「人の役に立つ」「表現の一環として」「人自身を知るため」だと紹介している。その上で、今回のロボ婚は「結婚、あるいは社会制度をモデル化」するという意味で意義があると位置付けている。
 社会制度とは人と人との関係性を表すものである。人が人自身を知るために作ったロボットで、人と人との関係性をモデル化する。もちろんその先にはそのモデルを再構築する可能性を含んでいるのであろう。
 今回のロボ婚では、それぞれのロボットの特徴的な外見が注目を集めている。百聞は一見に如かず、である。(とりあえず私が今回の件で知ることになった新郎ロボットのことは横に置いておこう。)新婦ロボットの特徴は視線だ。人にとって「見る/見られる」とは何か? その対象が人であった場合、それは人との関係性に他ならない。『扇情的な鏡』では様々な自己を見つめることによって、自分の内面を再確認する。一方でこの新婦ロボット、ロボリンは自己ではなく他者であり、この姿形であることでその関係性に「異性/同性」という視点も加えられている。
 見るという「私」の行動が、見られている対象(この場合はロボリン)の気持ちに関わらず、見ている「私」を見つめ返す。これをどうとらえるかは、その状況をどこから見ているかによって異なるはずである。単純に考えても、「私」目線で考えるか、ロボリン目線で考えるか、どちらからも切り離して劇場的に考えるか、それぞれ違う感じ方ができよう。これはロボットを介していても、人自身の関係性を考えることに他ならない。

<まとまらないので最後感想>
 稲見先生がスピーチの最後に広瀬茂男先生のお話として「ロボットは『無私』であり『聖人』に近い存在である」という話をされていた。だから、『A.I.』であんなに泣いちゃったのかなあ、とか。演出だって言われても、最後の『関白宣言』ウルっとさせられたよなあ、とか。「無私」なロボットに「私」を与えようとしても、それは人が考えているかぎり、人の「私」のコピーでしかなく、ロボットの「私」にはならないんだろうなあ、とか、考えました。