「シンプルなかたち展」とDesigning Body

 かたちのある「もの」は、自然を模したものか目的のあるものが美しいと思う。そんなことを考えさせられる催しをいくつか見てきたので、まとめてみる。

シンプルなかたち展 ― 美はどこからくるのか
『古くは先史時代の石器から現代アートまで約2万年の時を隔て、また、美術や工芸、デザインの領域のみならず、考古学、生物学、数学、物理学、機械工学に至るまで、ジャンルを越え、世界各地から集められた「シンプルなかたち」約130点を一堂に展示します。』ということで、いろんなものがあった。「かたち」というと私は立体を思い浮かべてしまうが、平面で表現されているものも「かたち」なのだと改めて思った。

*空間の鳥
ポスターなどになっている作品。普段、立体オブジェにはあまり興味を示さないのだが、これはなぜだかきれいで、どうしても実物が見たくなって、この展覧会に行ったようなものだ。実物も期待通り美しかった。作品の名前も知らなかったので、これが鳥だったことも知らなかった。そして、納得もいった。それから、森美術館は、天井が高くて気持ちがいい。

スペリオール湖、カスケード川
白黒の写真は好きではないはずなのに、いつまでも見ていたい作品。入口にあったので、最後もう一度戻って見に行った。音がないのに無音の音が聞こえてくるみたいな作品。

*アンチ
『2001年宇宙への旅』を思い出す作品。自分でやると「ほほぉ〜」って思うんだけど、姿が見えずに音だけが先に聞こえてくるから、不安な気持ちになった。

*女性の頭部像
『前期青銅器時代/前期キクラデス II 期(ケロス=シロス文化)(およそ紀元前 2500)白大理石 8.6 × 5.2 × 1.6 cm』
どうして、こんなに惹かれたのかわからない。でも、とても美しい。なんのために作られたのだろう。

Designing Body 美しい義足をつくる
 東大の山中先生の「美しい義足プロジェクト」の展示。

なんとなく『空間の鳥』と似ている。一方はアートとして、空に羽ばたく姿を模ししたもの。これは、デザインとして、実際に地を駆ける時を共にするもの。アートとデザインの違い。




<おまけ>
義足は進化していくさまがわかるように展示されている。そして、訪れた日は東大駒場リサーチキャンパスの公開日だった。他の展示を見ても、研究ってやっぱり売り物とは違う、ちょっと「ごっつい」ものなんだなと思った。
 
 

チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地

『チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地』に行ってきた。「と、」ってあるし、「分けて感想も書こうかな?」と思ったけど、やっぱりこれは「と、」だから1つにしないとダメなんだと思い直して書こう。とはいえ、すごい破壊力だった(いい意味で)。なにがって、子供が。平日でさえこのパワーなんだから、整理券を配っていた休日などはどうだったのだろう。

Nirvana
「踊る!」の一番のお気に入りは、これ!作品が大きくて空間が広かったからかもしれないけど、ずーっと遊んでた。作品と一体化できるんだよ、これ。ファンタジーがあるお話を読んでいると、自分が主人公になってお話に入り込む感じがある、そういう感じ。『ジュラシック・パーク』を初めて映画館で見たときも、画面の中の恐竜が自分に迫ってくる感じがしたけど、これは「自分が」画面の中に入っていく感じ。ちょうちょが捕まえられないとか。ほんと、楽しい。

*追われるカラス
これは歌舞伎みたいだった。見たことのある歌舞伎が『国性爺合戦』って言う大道具がいっぱい出てくる話だったからかもしれないけど、この3次元の作り方と似てるなあって思った。音が聞いてる場所によって違ってたら、もっと歌舞伎っぽいかもなあ。

*天才ケンケンパ
これが今回の「学ぶ!」のハイライト。大人が「きちんと」ケンケンパをやってた。次に順番を待ってた5、6歳ぐらいの女の子が同じように「きちんと」ケンケンパ。次がその子の弟と思われる3、4歳ぐらいの子。向こう側にいるお姉ちゃんに向かって、勢いよく走り出す。闇雲に走っても、エフェクトがかかる。10歩も行かないうちに、自分の足下で何かが起こっていることに気付いた男の子。一瞬立ち止まり、そこから先は足下を見ながら、それでも腕を広げて待っているお姉ちゃんのところに行きたくて、走る。その走り方に心の葛藤が現れていてかわいい。次の子は、前の大人のお姉さんの真似してケンケンパ。でも、下の図形とエフェクトの関係はわかってないから、ケンケンパは出来てるんだけど、走ってるのとそんなに変わらない。でも、ケンケンパができる自分に満足げ。子供って、ほんと面白い。

*光のボールでオーケストラ
これ、上のボールは、見守っている大人だよね。

*Floating Flower Garden
私って、つくづく田舎の子供だった都会に住む大人なんだなと思う。まず、根っこが出ている花をかわいそうって思っちゃう。根っこが出てても大丈夫なんだってわかっても、あんなふうに宙づりにされている花はかわいそう。花は一人で生きてない。生きているものを使って、自然以上に美しいものを作るのって、大変なんだな。子供の頃、自分の背より高い草の中を分け入って探検ごっこをしてた。あのとき楽しかったのは、草を自分で拓いていくこと。その見えない先があるとき開けて見えたとき。Nirvanaとは違う、自分と空間との関わり方。

私も未来をつくりたい。

発明の民主化の伝え方

公開講演会ということで、研究室外でも自由に参加できると書いてあるので、明治大学中野キャンパスで開かれたチームラボの高須正和氏の講演会に行ってきた。

講演タイトルは「発明の民主化」。詳しくはまとめサイトを見てほしい。今回はもう出国してしまうらしいので、ネタバレしても大丈夫かと思い、参加して何を思ったか、記録しておきたい。

私は高須さんを見習いたいと思っていることが3つある。1つ目は異なる世界をつなぐ役割を果たしている点である。高須さんと言えば、今回のメインテーマであるMakers Faireとかニコニコ学会とかどちらかというと理系な感じの分野で見かけることが多い。「理系文系って分けるのはどうも」っていうのはあったとしても、本人は「僕は私立文系です」って言ってるし、たしかにネコ耳付けてるけど何か作ってるわけじゃないなあ、と思う。そういう人がこうやっていろいろ発信して、その異なる分野の人達をどんどん巻き込んでいくエネルギーはすごいと思う。もちろん、このエネルギーは高須さん自身のエネルギーでもあるのだろうけど、それぞれの分野の人達が元々持っているエネルギーでもあるのだろうと思う。

2つ目は、何か思ったら自分の足で行って確かめてみる点。スライドは行った各地のMaker Faireの写真から始まる。そして日本を出国してからの今後の予定がこれ(このスライドの6枚目)。これだけインターネットが発達していろんな情報が行かなくても手に入るからこそ、それでも「行く」という選択をする心意気を見習いたい。私には珍しい言語を専門にしている友人がいるのだけが、その友人が「そこの人達がどんなことを考えているのかはその場に行って、話してみないとわからない」と言っていたのを思い出す。大人になると海外に行くor住むというのは、海外に行ってからよりもそこに行くまでの諸々が手続きが、社会とのしがらみができればできるほど大変になっていくので、心意気だけで実行できるようなことでもない。

3つ目は仕事や人に対してフェアに見える点。超会議でも表舞台に立ったり面白いことばかりしているのかと思いきや、Pepperくん運んで『21世紀の労働により筋肉痛が出ている』つぶやいてたり。(もしかしたらかわいい女の子にはより親切にしようとしているのかもしれないけど、そうにも見えないし。)講演の中で、一番心に残っているのは「今の日本は怒られないように作らないといけない」というようなことを言っていて、「なるほどなあ」と思った。たぶん、高須さんのような立場で「怒られない」ようにするには、フェアであることが1番なのかもしれない。怒られないことは物事を効率的に進める、つまり自分がやりたいことへの近道だ。

誰もが高須さんにはなれないし、ましてやコピーになる必要なんてない。”We makers are all different and all wonderful.” でも、私が高須さんから受け取ったものは、今度は高須さんには届けられない、私の届けられる人に渡していきたい。

Imagine Cup Japan 2015

 久しぶりにこの手のものでワクワクするものを見た。忘れてしまわないうちに感想を書いておきたい。Ustreamでも中継していたようだけど、現場で見られる東京ステキ。

 技術的なことはよくわからないけど、大人目線で見ると「すごーい」とか「上手いな」っていうのは、たぶんビジネス界ではできてしまうようなものなのだろう。どうしてそれが世の中に出ていないかと言えば、「すごく」お金がかかるとか、時間がかかるとか、できないんじゃなくてやらないんだろう。だからこういうコンテストで大人が求めるのは、そういうのじゃない「なにか」。Imagine Cupはその「なにか」を探す取り組みなんだと思う。もちろん、探すのはImagine Cupに参加資格のある学生だけじゃなくて、大人もだ。

 今回見ていて一番、驚いたのは審査員達だ。全然予備知識なく行ったので、最初に登壇した伊藤さんの赤いワンピースや砂金さんの白地に柄の入ったジャケットを見て「あーあ、アメリカのIT企業。やっぱりなあ」って、決してポジティブではない印象でスタート。が、それは最初のプレゼンテーションの後、簡単に覆された。どの審査員も、そのコメントの答えをチームに求めれば、そのチームの良さが引き出されるかを考え抜かれたようなコメントなのだ。過剰な賞賛やおだてではなく、その良さを認めた上で「どうすれば次に繋がるか」あるいは「ここが足りないのではないか」という指摘。参加者と審査員の関係が、たぶん審査員たちも今は審査員という立場だけれど、そうやって育ててもらって、今の立場にいるんだろうなあということが想像できるような関係性。日本のものづくりは、こうやって続いてきたんだろうなあ。

 結果は私の中では、CHILDHOODとすくえあの一騎打ちだった。どっちが選ばれてもおかしくないと思った。だからこそ、残念だと思ったのはCHILDHOODの「時間を越える」という話が最後にでてきたことだ。「ああ、これってそういうことだったんだ」って、本当に最後の最後にわかった。そして「小さいときに戻ったら、どんな気持ちになるか」という最初のひらめきにどうしてもっとこだわらなかったのだろう。「お母さんや保育士さん、子供に関わる人達に体験してほしい」って、言ってたと思うのだけど、本当に必要なのは母親じゃなくて父親なんじゃないかな?(彼らのイメージしている役割分担なら)。子供に接している人なら、子供の目線がどの辺りにあるかはたぶん無意識で感じていると思う。それを意識化することに意味があるなら別だけど、むしろ無意識に感じていない人こそ必要なんじゃないかな?藤井先生のSRを体験して、目の前に提示されれば、過去のことでも私の視覚は簡単に騙された。だから、リアルタイムの映像でなくても「ハコスコでもいいのでは?」の砂金さんのコメントには頷けた。目の前の現実にこだわらなければもっと”CHILDHOOD”を体験できる気がする。

 一方、選ばれたすくえあの心配は、言葉の壁だ。あれだけの技術をうまく説明できてない部分があったから、技術的なことがわからない私は自分の中で想像で補ってより大きい可能性を見いだしたような気もする。あのプレゼンテーションが英語になったらどうであろう。同じように自分の中で補完するのだろうか?何より”SCREEN feels AIR.”は、本当に彼らが考えているような意味で理解されるのだろうか?私自身、この文?(たぶん、最後にピリオドがついているから文)を、正しく理解できているかどうかわからない。だから、どういう意味なのかその部分を審査員はさりげなく質問していたような気がしたけど、答えられていなかった。

 審査員の質問と言えば、P.M.Karaokeへの「何時でもの割合が少ないのではないか?」というのももしかしたら意味深な質問だったのかもしれない。54人?(違うかもしれない)へのアンケート結果をパーセンテージで表すのは、プレゼンテーションとして適切なのだろうか?人数にしておけば、「このうちの何人かはこういうコメントをしました」というのがより効果的になる気がする。

 プレゼンテーションは難しい。シアトルでの世界大会だからって、アメリカ人発表者のTEDのような欧米型のプレゼンテーションをしても、たぶんかなわない。今回だって、RTableProjectのあのノリは、やっぱり大阪の専門学校のチームだからできるし、真似できないと思う。でも、どうしたらいいのかはわからない。それもImagine Cupが探している「なにか」の一つのはず。

 ともかく、愛のある発表&審査であった。

タッチボールはいかがですか?

「HMD(頭部搭載型デバイス)がないと楽しめないスポーツを作ろう!」
EC2014に「コンセプトシート」をこっそり応募しようと思っていたのに、途中から実装することが条件になってしまったので、断念したのがこれ。面白いと思った人がいたら作ってください。

タッチボールとは
タッチボールとは、味方のボールにタッチすることで点数がはいるスポーツです。イメージとしては「逆目隠し鬼」。ヴァーチャルリアリティを使って、鬼だけが見えていない世界を作り出します。

必要なもの(私が作れないもの)
・競技用のボール(プログラムによって、黄色と黒の2色に光るもの。)
HMD

ルールの説明
<初級者用>
音楽が流れている間、プレーヤーは自由にコートを動き回る。音楽が止まった瞬間に、自分が持っているボールの色によって、2つのチーム(黄色ボールと黒色ボール)に分かれる。音楽が止まったら、その場を動いてはいけない。プレーヤーのうち、一人だけHMDによって、ボールが光っている状態に見えない。その人がキャプテン。キャプテン本人には見えていないが、キャプテンも黄色または黒色に光るボールを持っている。キャプテンはコート内を自由に動き回って、自分が味方だと思うプレーヤーのボールにタッチする。同じチームだったら、得点。タッチされた人はコートの外へ出てゲーム続行。相手チームに触ったら、相手チームの得点となり、キャプテンは外に出る。触られた相手チームのプレーヤーが、次はキャプテン。キャプテンになった時点で、新キャプテンもボールが光って見えなくなる。全部のプレーヤーがコートの外に出るまで続ける。

<これまでの遊びとの違い>
このゲームでは、全てのプレーヤーがキャプテンにボールを「タッチしてもらいたい」状況になります。そのため、これまでの「さわられたくない」鬼ごっことは逆に、みんながキャプテンを求めることになります。また、目隠し鬼の場合は、鬼が目隠しをしているためその動きに制限がありますが、タッチボールでキャプテンが見えないのはボールの色だけです。そのため、キャプテンは自由に動き回れます。更に、HMDを付けているプレーヤー同士は逃げる必要がないので、接触する危険を押さえられます。また、キャプテンがボールをタッチしに行く時、味方かどうか確認するため、コミュニケーションを取る必要があります。

<上級者用>
次のルールを初級者用のルールに加える。コートは、バスケットボールまたはバレーボールコート。プレーヤーは4人×4チームの16人。4チームは、コートの四隅にそれぞれの陣地を持つ。キャプテンが動き回れる時間は、30秒。その時間が過ぎたら、キャプテンは相手チームに自動的に交代。キャプテンが同じ色のボールにタッチしたら、そのプレーヤーはキャプテンの所属するチームの陣地に立ち、そのチームの得点。(チームのメンバーが同じ色のボールになるとは限らない。)

<初級者用との違い>
時間制限があるので、敏捷性が求められ、ゲームというよりスポーツに近付くと思います。また、チームで対戦するので、様々な戦略が考えられます。もう少し、細かくルールは決められそうです。

なんてね。

SR×SI×MSの体験会

ハコスコの感想を書いてみたら、「SR×SIっていうのも作っています」と藤井先生に教えていただき、「行ってみたいなあ」と思っていたら、SR×SI×MSの体験会が行われるというお知らせ。あれよ、あれよとわらしべ長者並みの幸運で、体験会に参加してきました!

思い返せば、昨年6月のゲンロンカフェでのKMDの稲見先生とUEIの清水社長の対談に藤井先生が登壇されたのを見て、「SRってなに?」から始めて、「拡張する脳」も読んだし、ハコスコも体験して、とうとう本物のSRが体験できる! これでテンション上がらないわけがありません。

というわけで、行ってきました。理化学研究所。「池は危険なので近付かないこと」なんて看板があったりして、入る前からすでに「やっぱりカッパ。。。」とニヤニヤしてしまう私。

ご一緒させていただいた女の子たちは、今回の主催者である市原さんを筆頭に、みなさん魅力的。もう控え室から非日常感満載です。

詳しいレポートは、DMM.makeに載るそうなので、ネタバレしないように気を付けながら、ここでは私の体験者としての感想を書きます。

SR×SI×MS、ひたすら楽しかったです。目の前で起こっていることが「現実なのか虚構なのか」最初は見極めようとしました。それは、その軸がズレることがこの体験の面白さだと思っていたからです。でも、体験してみてわかりました。現実であれ虚構であれ、私の目の前で起こっていることは「私にとっての現実」なのです。私が現実の世界にいるのか虚構の世界にいるのか見て楽しいのは、「私を見ている」周りの人たちのような気がします。(この「見ている人視点」はレポートに載るかな?)

そして、私が楽しいと思えたのは、森さんのパフォーマンスが、私の記憶の中の「楽しい思い出」の記憶を刺激したからだと思います。この体験をして思ったのは、SRであれVRであれ、「無」からは何も生まれないのではないかという直感です。自分の記憶の中にある何かしらと結びつけて、今目の前にある状況に現実(Reality)を感じているような気がします。あのバラの花は、若い頃「チャオ、バンビーナ!」と口にくわえていたバラの花を私に差し出したイタリア人を思い出させてくれました。ハコスコの映像も、直接そこに行ったことはなくても、旅行中の高揚感も一緒に思い出させてくれました。

なんだか、矛盾を感じるのですが、現実に体験できないから代替している(Substitute)のに、現実社会で豊かな経験をしているほうがSRの効果を享受できるような気がしてなりません。もしかしたら、今の私の脳はそうなっているだけで、今後訓練すれば変わっていくのかもしれません。

Seeing is believing. 百聞は一見に如かず。体験は想像では越えられないことを実感した一日でした。

のび太とハコスコ

ドラえもんアメリカに渡るらしい

でも、やっぱりのび太はNobyじゃなくてのび太だと思うし、ジャイアンだってBIG Gじゃない。

子どもの頃の私たちの周りにはドラえもんは簡単に見つかった。うちにコロコロコミックや単行本がなくても、歯医者さんに行けば待合室においてあったし、TVを付ければ大山さんが、「ぼく、ドラえもん」って言ってた。のび太は全然カッコいいヒーローじゃなかった。私たちが普通に持っている弱い心も、ちょっとした正義感なんかも持ってた。「どこにでもいそう」で「誰の心の中にもある気持ち」を持っていそうなのがのび太

最近、ハコスコという段ボールでできたHMDを手に入れた。

これがのび太みたいなんだ。軽くて「どこにでも持って行けそう」だし「心の中にある何か」を引き出してくれる。SR Viewerというアプリを使って、スクランブル交差点の映像を見てみる。見るだけじゃなくて、部屋の中で歩き回ってみる。なんとなく、横断歩道を渡ろうとしながら歩いている自分に気付く。「仲見世通り」なんか、本当に人とすれ違ったり追い越したりしている気持ちになる。渋谷の交差点も仲見世通りも本当に行ったこともあるから、1回イヤホン付けて歩き回ると、後はイヤホンがなくても自分の中の記憶が中に入って行くのを助けてくれる。

でも、そうやって入り込むことができるからこそ、ハッと気付く。ぼっちだということに。街頭のざわめきの中で感じるのと同じ孤独感をも感じてしまう。

開発者の藤井先生は、twitterでこんなふうにつぶやいている。

VRって複数人が同時に同じVR空間に存在する事が価値になるだろうし、しかもそれが現実空間でも同じよう空間を共有する事が重要になる気がする。となると、装置は小型化モバイル化するのは必然で、ハコスコはそのプラットフォームとして最適なんじゃないかと考えてる。

うんうん、たしかに、みんなで狩りに行けたら楽しいし、今宵も人狼が襲ってくる時間を怯えながら過ごせるかもしれない。

男の人は、好きなタイプの女の人を見て楽しんでいるみたいだ。私としては、そういう意味ではなんとなくかっこいい男の人を見るよりは、たぶん触ることのほうが楽しめるような気がする。(触ったことないけど、市原えつこさんの「喘ぐ大根『セクハラ・インタフェース』」とか触ってみたい。)

じゃあ、視覚への刺激で何かを感じるのは? どうしても外せないのはやっぱり「見られていることを感じる」ことだと思う。何度目かの「仲見世通り」の映像を見ながら歩いているときに気付いた。これは私が見ている本物の世界とちょっと違うぞって。視線の位置が私より高い。たぶん映像を撮った人は私より背が高い。だから、逆にこの自分より背の高い視点からの映像に自分が写っていたら、自分で自分を見てるんだけど、自分じゃない人に見られているような不思議な感覚が得られるような気がする。どこに主観があるのはまるでわからなくなりそうな不思議な感じ。

VRを使って、自分の心の中にある何かを見てみたい。