地をひらく人たち

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@クラブヒルサイドサロンに行ってきた。

 

ゲストの池上さんへの感想です。

 

 前略 昨日は楽しい時間をありがとうございました。高校時代、物理だけは赤点を心配したことがあるので、お話をうかがってもわかるかどうか不安でしたが、それは杞憂であったことがすぐにわかりました。参考図書に挙げられていた『天才の世界』(湯川秀樹著、知恵の森文庫、光文社)も、まだ途中までしか読めていませんが、昨日のセミナーと同じような印象を受けました。難しいことのはずなのに、ことば巧みにご自分の土俵に引き込んで「わかったような」気持ちにさせる。(笑)誤解を招く表現かもしれませんが、人はわかった気持ちになるのは気持ちいいものだと思います。

 こんなことを申し上げては失礼かもしれませんが、「僕の専門ではないのですが」というようなことをおっしゃりながら、更に素人であると想定される参加者のために、特に理論物理学の説明の部分は、かなり丁寧に準備していらした印象を受けました。おかげさまで、本で読んだだけだったら、かなりの確率で読み飛ばしていただろうあの「図」も、真剣に見て理解しようとしましたし、「入って出ていく」のがわかったような気がします。どこかで読んだ人工知能(AI)にとって代わられない職業の中に先生が入っていたのは、こういうことなのでしょう。聞き手の理解に合わせて、話のテンポを変えたり、足りなさそうな情報を補ったり「臨機応変」に対応するのは、なんとなくAIには無理そうな気がします。ましてや、自分のツボにはまると暴走気味にその話を続けていく技はAIには限りなく無理だと思います。(笑)でも、そういう話には聞き手は引き込まれていくし、もっと知りたいと思うものなのではないでしょうか。

 私が物理が苦手というか受け入れられなくなった(最近は受け入れようと努力しています)のは「光は波だ」って、ところからなのですが、昨日のお話をうかがって、なんとなく腑に落ちました。私は習っていた頃、理論物理学を「理論」だと理解できなかったんだと思います。今なら「多変量解析でn次元でベクトルを回転させる」みたいな話も「ふ〜ん」って、聞けているような気がするので、あの頃はレディネスが整ってなかったのかなと思います。私たちが普段使っている言葉と言語学の関係が、現実社会と物理学の関係なのかな?と勝手に理解しました。

 全体を通して、北川さんは過去の話をしたい人で、池上さんは未来の話をしたい人という印象を受けました。過去の話は「分析」になるだろうし、未来の話は「創造」につながると思います。そういう意味で「天才」をコインの表裏のように見せていただいたような気がします。

 過去の話をするには、私の知識が圧倒的に不足しているので、ここでは未来の話を書きたいと思います。現実社会(存在)と理論(認識)を結ぶπ中間子のようなものは存在しないのでしょうか?北川さんのお話から考えると、それが芸術(アート)なんだと思います。ただ、それが池上さんのおっしゃった2008年以降は「事実があり余っている」せいで、単にアートだけでは収まらなくなってきているような気がします。そこに科学や哲学など様々な要素を含めないことには、存在と認識をつなぐことができなくなっている?という感じでしょうか。私が「複雑系」という言葉から受ける印象はそのような感じです。

 途中で渋谷慶一郎さんがいらっしゃったので、その例としてSkeltonの話がうかがえるかと色めきだったのですが、それはあまりにも贅沢な望みでした。科学未来館での公開ワークショップでのSkeltonは圧倒的でした。しかし「Skeltonを作った人たちが天才に近付いたのか?」と問われたらその答えには悩みます。むしろSkeltonが「天才になるかもしれない」とは思えます。そこが湯川秀樹や話題になった空海や啄木との大きな違いのような気がします。天才が創造的なのではなく、創造の究極が天才になる予感という感じでしょうか。 

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今後ますますのご活躍を期待します。